月報 3月: 持ち場、弟 in Van、カナダ本
2025-04-08

Life
自分の持ち場
(厳密には4月頭なのだが)こちらの企業で働き始めて1年が経った。少し前にあった年次レビューも良好で、給与も少し上がった。現金以外の株式報酬だったり、生き残ることができれば結構待遇はいいんだなァと思った。
日本では結構なんでも屋として職種に縛られず動くことが多かった。こちらでは「ファイナンスの人」という看板を背負って仕事することになった。1年やってみてどうだったか?「結構好きだし向いてるな」というのが今のところの所感。ファイナンスを愛してやまないかはわからないが、ファイナンスの仕事に従事することで得られる立ち位置が好きだ。関わる人はExecutiveクラス(偉い人)が多いし、アクセスできない情報があまりない。別に偉い人とずっと戯れることにエクスタシーを感じるわけではないのだが、例えば事業やプロダクトとして向かう方法が見えやすいのはいい。文脈とWhyはわからないがとりあえずやるみたいなのが苦手なので、そこはありがたいなと思う。

3月は自分の持ち場ということを少し考えた。
前職でもその前も、経営企画の仕事をしていて、5年くらいやって結構やりきったなという気持ちがあった。もう次はやらん!と豪語して日本を出た。こっち(少なくともカナダでは)経企のような仕事が全然ないので、職種としてはやってないのだが、割と類似することはやっている。というか、最近増えた。
取りまとめっぽい仕事が出てきて、経企っぽいな〜〜と思い、はじめは割とあんまりやりたくないッスムーブをしてた。でもこれまでの経験もあるから、まァ結構できるのである。そうると感謝もされるし、悪い気もしない。そもそも、自分が事業側で取りまとめられる側にいて、取りまとめ側がイケてないなと感じると、すごくモヤモヤする。フォーマットが微妙とか、結局使わんものを求められるみたいなのがイヤ。自分が取りまとめ側に回ればそれを回避できる。完璧だとは思わないが、ベターなものは提供できる。
常々、「点を取るやつが一番エライ」と思ってた。だから前職の仕事をしている頃から、取りまとめの仕事をいい感じに型化したら事業側(≒点を取る側)に行きたいと思ってた。今もその考えは消えたわけではないのだが、そっち(=点を取る事をずっと考える)側にいっても、点を取る人や集団をどう取りまとめるべきなのか、あるいは放っておくべきなのか、みたいなことを頭の片隅で考えていた気がする。飲み会で言うと、率先してビールをグビグビ飲みつつ、席の差配や二次会のことを考えるみたいなもんである(違う?
あえてちゃんと話をまとめず、別の話をする。こっちで入ってるサッカーチームのシーズンが終わった。最高の夏が終わって日が短くなる頃の9月にシーズンが始まり、たいていの試合は雨である雨季にピークを迎え、やっと春かな.. という頃にシーズンが終わるという修行のような所業だ。小学校くらいしかサッカー経験がない私は「とりあえず走るッス」ということでウィングのポジション(世界の三笘先生と一緒。どうでもいいけど背番号は22)を志願していた。前半はそれでやってたんだが、後半なんかうまい人が中盤にどんどん入ってきて、フランス人監督にお前はディフェンス(守り)をやれと言われ、サイドバックをすることが多くなった。小学校の頃からディフェンスをやった記憶がなく、「えェェ無理っすよ〜」と思いながらやっていたが、終盤になって「意外と向いてるのでは」という気持ちになってきた。監督の方針にもよるが、とりあえずサイドを前に後ろに走りまくり、責めてくる相手にピッタリついて動きを止め、攻めのタイミングでは場合によってはゴール近くまで上がる。メッチャ走る。体力があるからというのはあるが、ウィングをやって攻めを主にやっていたときも、結構自分は守りが気になってしまう。自分のプレイしているレベルだと、とりあえず頑張って走って戻れば、ボールを取れなくとも相手の動きを遅めることができる。技術は全然ないが、走ってれば貢献できるところがある。
すげー無理やり言えば、仕事もサッカーも似たようなもんなんかなと思った。後ろというか守りというか、そういう部分は結局気になってしまうし、そこそこできる。経企にしろディフェンスにしろ、自分がずっとやるべきはこれじゃないはずだ・・みたいなことを思っていたりしたが、これが自分の持ち場ということなのかもしれない。30代、まだまだトライも攻めも重ねていきたいところだが、自分の持ち場に気づいていくということは健全なことかもしれない。

弟 in Van
15歳離れた弟がバンクーバーに遊びに来た。ここ1年は大学受験を頑張っていて、無事に第一志望に合格したみたいなので、ぜひおいでということで来た。自分では到底入れないようなとこに入っていったので、すごいなァと思った。
天気という意味では残念ながら雨の日が多かったものの、島への旅行やハイキング、スキー、たこ焼きパーティー等色々やれて良かったし楽しかった。メッチャスキーが好きという人とかでなければ、冬にバンクーバーに遊びに来られても困ってしまうのだが、サマータイムに入ったこともあり日は長い(19時くらいまで明るい)ので、出歩く選択肢はそこそこあったように思う。
弟とは15歳も離れていることもあり、あまり一緒に育ってはないので、1週間くらいずっと時間を共にするのは新鮮だった。身長も一緒または自分より高いくらい(まだ認めてない)だし、年齢的にも大人なのだが、良い意味でまだまだ真っ白な子どもだな〜!ということを思った。自分は自由に生きたい民だし、みんな基本好きに生きたらといいと思っている。なので、あまり人の生き方に干渉したくないし、家族という近い存在であれば、尚更あまり強く断定的なことを言わないようにせなば、とも思っている。

自分も振り返ればそうだった気もするが、日本の中学〜高校、そしてそこから大学への受験ロードでは、だいたい順路がプリセットで決まっている。センター試験も科目が多いし、あんまり科目の好き嫌いも言ってられない。そもそも勉強で忙しいと、今日どうすっかな、とかこれ好きとか嫌いとか言ってる時間もない気がする。行きと帰りの電車も分単位で決まっていた(かもしれない)状況から急に「じゃあバンクーバーで今日どうしたい?何が好き?」と問われても、そりゃあ困ってしまう。困ってるから私が全部決めるというのも違う気がするし、他方で当然1年半住んでいる私の方がより良いプランは提示できるとも思う。でもそれじゃあ結構干渉してるよなァ..と軽くジレンマがあったりした。高校生でもそうなのなら、赤子に「君はどう生きるのか」と問うたって仕方ない。まだ全然わからないが、自分以外の個(子)を育てるというのは、そういう葛藤の繰り返しが沢山あるんだろうなァと思い、世の中の親御さんスゲーなと思った。
最近の部活やサークルの新歓はビラロードで囲んで勧誘でなく、インスタのDMなどが使われるらしい。私が大学生だった15年前よりもよっぽどオンラインの世界に浸るツールや時間が増え、チャットで殆どの問題の答えが得られ、おそらく卒論も機械が書いてくれうるような時代に、何を感じ、何を好きになり、何に違和感を感じ、どんな人と出会うのだろうか。私なりにメッセージも手渡した。サチアレ!

Activity
- 飲酒: 飲み会 9日 (+1日)、アルコール摂取量 +30%
- 運動: 465 kcal/日 (+85 kcal)
雨の日が多かったが、自転車通勤・クロスフィットというルーティンを結構守れた。運動してない日はソワソワするので、逆に休みの日を作るのをどうしようかなど考えている。
Reading
今更ながらカナダの本を読んだ。
細かい情報は色々あるのだが、いくつか思ったこと。
まずはカナダという国はまだ150年しか歴史がないのだなァということ。アメリカも合衆国としてはまだ250年くらいで江戸時代全部と一緒くらいなんだねェ(マウンティングしてるわけではない)と思っていたが、それよりも100年少ない。この本で強調されていたのは、短いゆえになのか、理想を追ってきた国であるということ。若い移民国家であるゆえアイデンティティ形成は大きな問題であり、ケベック独立問題、(殺戮した)先住民との和解の道も色々とハードルがある。それでも、理想を追っている。近くの国の保守の影響は受けつつ、それでも移民への姿勢はアメリカほど極端ではないし、私も1年半住んでいて、自分がガイジンと感じたことは殆どない。図々しさもあるかもしれないが..。そもそも自分は純?カナダ人と思っていた友達も、親は外国からの移民という人も結構いる。そういう歴史の浅さもあるが、それに加えて個々のカナダ人としても多民族国家というものへの理解と共感が総じてあるように感じる。
カナダでは公式のイベントであったり、何か建物を建てる際には必ず原住民(First Nationsと呼ぶ)へのリスペクトの言葉やそれに紐づいた展示をする。もちろん定型化されており気持ちが入ってるかどうか..みたいな問題はあるだろうが、目にする機会があるということで、住民はすくなくとも認識する機会がある。とく掲示されている原住民の伝統的なデザインというのは特徴があって、はじめ自分は直感的にはちょっと強烈だなァと感じていたのだが、「だいぶ見慣れたね」という話を相方ともしていた。アメリカも原住民を殺戮して土地を開拓したという歴史は共通したものがあると思うのだが、似たようなものを目にしたことがない。
これは私の想像の域を出ないが、こうしたことをひっくるめたカナダの「寛容さ」というのは、一面においてはカナダ人がカナダ人としてのアイデンティティを強く持つことを難しくすることがあると思う。住んでいる人の95%が「日本人っぽい日本人」である日本や「ウォーアメリカアメリカ!」となっている隣国に比べて、何か国にとって大きくネガティブなことが起こった際に、私は〇〇人だ、この国のために踏ん張るんだ、という気持ちの総量がどれほど生まれるのだろうか。国内であれ国外であれ対立するっぽいもの(国であったり、移民であったり)を置くと手っ取り早くアイデンティティを醸成することができる。カナダはあまりそういうことをしてきてないなとぼんやり思っていたが、改めて「理想を追っている国である」という認識をしたことで、今住んでいるこの国の理解をもっと深めていきたいなと思った。
Listening / Watching
特段これというエピソードではないのだが、以下の2つを毎日通勤時に聴くということがルーティン化してきた。
どちらも10-15分であるので、聞きやすい。通勤時間は15分でも、なんだかんだその準備や着いてから席につくまでとかを考えると、意外と耳がヒマしている時間は長い。WSJはアメリカの話が99%で、FTの方はもう少しアメリカ外の話がある(平常時は50:50くらいか?)なので、自分の中ではバランスがいい。
最近は関税や関税や関税など変化が日々目まぐるしいのだが、Podcastは半日〜1日くらい時差がある。なので、何かの発言やツイートみたいなものがタイムリーに入ってくるわけではない。でもその発言やツイートをタイムリーにキャッチすることで自分の生活が即時変わることは殆どないし、むしろ精神衛生上はマイナスな気がするので、この時差はちょうどいいかんじゃいかと最近は思っている。
